“分人”を意識した日

 <本当の自分>はひとつじゃない!
『私とは何か「個人」から「分人」へ』(2012/9/14_講談社現代新書) の小説家‗平野啓一郎さんの講演会に参加した。2017年9月9日(土)午後。武蔵野スイングホール。


 明治以前に「個人」はなかった(士農工商で決まった人生をあゆむ)。individual(indi否定、vidual分ける)とは、分けることのできないもの、「一個人」のと訳され、その後「個人」として定着。分かられない個人のイメージが強かった。



 平野啓一郎さんは中学生時代より、本当の自分と仮面の自分を意識してきたといいます。人間は分けることの出来る存在という概念を打ち立てて「分人」概念を確立したようです。対人関係毎に色々な自分がいて全てが自分であると気づいたときに「分人」化は出来たといいます。


 昔はケータイ、メール、LINEがなかったので「分人」化させやすかった。ともいい、今はとても「文人」化させにくい時代。しかし嫌なコトも多い昨今、今こそ「分人」化を意識して対人関係毎の自分を考えてみようという提案。


 
 中学生のワークショップなどでは嫌な友達と会っている自分が嫌ならココだけをやり直すという考え方にたって、「分人」比率を変えることを考えるのだと言います。今の「分人」円グラフと5年後の円グラフは違うということを気づいてもらう。心地の良い「分人」を増やしていく。比率を高めていく。


 社会人も、会社の仲間といる分人、友人といる分人などから、妻といる分人、息子達といる分人、同好の士といる分人、地域社会の同好の士といる分人など嫌な「分人」比率を減らし、好きな「分人」比率を増やそうと提案。

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 “恋”と”愛”との違いは”恋”は一過性のモノ。”愛”は継続性が重視される感情。その人といる時の自分が好き(「分人」的な観点でで考えるとわかり易い)というコトに他ならない。

 
 “死”はもう“その人”と一緒にいる時間が持てないということの悲しみ。“喪”の作業は“その人”との別れで生きている人との「分人」化比率を大きくしていくより仕方がないというコト。しかし亡くなった人との「分人」時間は“0”にはならない。アルバムを見たり、仏壇で祈るとき“その人”と一緒にいた「分人」はそこに在る。“愛する人”が亡くなった時、罪悪感はもたなくて良いのです・・・。


 <まとめの話>
 私たちは“死”を想像しながら、人生をふり返りながら生き、"死"をむかえる時、自分の好きな「分人」時間がおおきかったなぁ~と思えたら、満足して"生きた"と言えるのではないでしょうか? 生きにくい現代を生きる社会人も"これこそが自分"だと言える複数の足場をつくっていき(収入源の「分人」化)リスクヘッジをして生きていきましょう!


 帰りの電車の中で、自分の5年前の「分人」比率、そして現在の「分人」比率、理想の「分人」比率を考えた一日でした。